産経新聞ファンクラブ「ウェーブ産経」大阪事務局

文化サロン「平安時代のライバルたち」第3回を開催しました

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 ウェーブ産経の文化サロン「3回で学ぶ京都」。このシリーズで、“平安時代のライバルたち”をテーマにした「歴史人物対決シリーズ 平安時代編」の第3回講座が12月15日、大阪市浪速区の産経新聞大阪本社で開かれました。京都観光企画会社「らくたび」代表の山村純也さんが「崇徳上皇VS後白河天皇~日本最大の怨霊VS日本国第一の大天狗~」と題して、午前と午後の部で講演。会員計約80人が参加し、平安末期の朝廷での権力闘争などについての話に耳を傾けました。

 《院政と貴族の没落》

 まず、2人が活躍する直前の時代背景について考察しました。この頃は藤原氏による摂関政治の黄金期、紫式部らも活躍した道長・頼通の時代です。

 「この華やかな貴族文化がなぜ起こったのかと言うと、社会の乱れもあって新たな荘園領主が増え、認めてもらいたい新領主が中央の貴族に年貢を納め、一方で旧領主も少ないながらも納めていたため、収入が急に増える状況に一時的になった」からだそうです。

 しかし「そのうち新領主は、納めなくともすむことに気付いて納付をやめ、武士になっていった」ので貴族は経済的に打撃。朝廷も「藤原氏主流に縁が薄い白河天皇が上皇となり、しがらみを断って院政を行いだした」ため、藤原氏らは力を弱めていったようです。

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 《崇徳上皇の歩み》

 崇徳上皇と後白河天皇はともに、鳥羽天皇(上皇)と藤原璋子(待賢門院)の子供とされます。しかし鎌倉時代初期の説話集「古事談」によると崇徳は(鳥羽の祖父の)白河法皇と璋子の子で、鳥羽は崇徳を「叔父子(おじご)」と呼んでいた、とあります。「自分の子ではないのかもと思ったら愛情は感じない。鳥羽は璋子は好きだったが、若い藤原得子(美福門院)に傾いていった」という状況だったようです。

 崇徳は幼くして天皇になりますが、24歳の時に鳥羽と美福門院の子(近衛天皇)に皇位を譲ることを強いられます。「まだ若く不満はあったようだが、自分の子を皇位につかせる可能性は残っていた」ため耐えたようです。その近衛天皇は夭折したものの「鳥羽と美福門院の画策で、同母弟の後白河が皇位を継ぐことになって崇徳は大いに落胆した」とのこと。

 後白河は崇徳に対して警戒を強め「鳥羽の臨終の際も末期の対面を許さず、初七日を勝手にやるなど崇徳を追い詰めた」そうです。この結果、起こったのが崇徳と後白河が争った『保元の乱』。この時代に台頭してきた平氏、源氏を巻き込んでの大乱となりましたが、崇徳は敗れて讃岐へ流されました。

 讃岐で崇徳は仏教に傾倒し写経に専念します。完成した五部大乗教の写本を朝廷に送りますが、呪いが込められていると考えた後白河に送り返され怒り心頭。「舌をかみ切って出た血を使い、自分は大魔王となって皇を民に民を皇とする、などとした呪いの言葉を記して憤死した」そうです。その後、二条天皇や高倉天皇が若くして死に、平清盛(民)が太政大臣になり、飢饉も起きたことなどから「崇徳が史上最大の怨霊であると認識された」とのことです。

 《後白河天皇の歩み》

 一方、後白河も本来は皇位を望める状況ではなく、「若い頃は謡いである今様にのめり込む気楽な遊び人の生活を送っていた」そうです。しかし、29歳の時に急きょ天皇にまつりあげられ、崇徳との政治対決に勝利した後は、4年後に実子(二条天皇)に皇位を譲ってからも、30年余りにわたり院政を行います。

 その長期政権ですが「一貫した政治方針はなく、その場しのぎで大局観には乏しいもの」。保元の乱後は清盛を抜擢するものの、平氏の勢力が大きくなりすぎると『鹿ケ谷の陰謀』を企て、平氏が都を去ると源義仲、源義経、源頼朝と頼る相手を次々と節操なく変えて暗躍します。

 「良く言えば、しぶとく粘り強い。のらりくらりの態度は京都らしいとも言える」そうで、後に頼朝から「日本国第一の大天狗」とまで評される、武士を右往左往させた策略家となります。が、結局は初の武家政権である鎌倉幕府の誕生を許してしまいます。

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《『保元の乱』と2人の影響》

 ところで、2人の運命を決定づけた『保元の乱』ですが、後白河方の平清盛、源義朝は、ともに源平の若きリーダー。「芸術好きで取り巻きも同じようなメンバーしかいない後白河のため、亡くなる前の鳥羽が、頭領が味方するように画策した」ためのようです。

 崇徳方にも清盛の叔父・平忠正や義朝の父・源為義ら実力者がつきますが「後白河側が夜討ちで先制攻撃を仕掛け、混乱を招いて大勝利」となります。つまり「後白河は乱では何もできず、父(鳥羽)が残してくれた力で切り抜けたが、ここから人生の第2ステージが始まった」ということです。「年長の崇徳は必死で頑張ったが及ばなかった。もし、崇徳が勝ったら歴史的にも変わった可能性がある、日本史上でも重要な戦い」となるようです。

 崇徳はその後「最後の怨霊とされ朝廷に悪いことがあると、すべて崇徳の祟りとされた」とか。一方「信仰するとご利益がある」ともされ、崇徳をまつる白峯神社は、明治天皇が勅命で建立。昭和天皇も東京オリンピック開催の時に、成功を願ってこの神社に勅使を出したそうです。

 一方、後白河は今様歌謡の集成である『梁塵秘抄』を残し、熊野神社など三熊野を京都に勧請。蓮華王院(三十三間堂)を建立したほか、朝廷の財政を支えた広大な領地の「長講堂領」も残しました。2人とも後々にまで大きな影響を与えており「ある意味で、すごい兄弟だったとも言える」そうです。

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