産経新聞ファンクラブ「ウェーブ産経」大阪事務局

歴史リレー講座「豊臣秀頼の妻と子供たち」を開催しました

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 大坂の陣後も生き延び、天寿を全うした秀頼の息子がいた-。大阪城天守閣復興80周年プロジェクト参加事業となるウェーブ産経の歴史リレー講座「豊臣秀頼の妻と子供たち」が10月14日、大阪市中央区のKKRホテルで開かれました。会員の人たち約90人が参加。大阪城天守閣研究主幹の北川央(ひろし)さんから、秀頼の男児は2人いて、1人が生き延びたとする新説などを聴き、近くの玉造稲荷神社で前日除幕されたばかりの秀頼像を見学しました。

 《千姫のその後》

 徳川二代将軍・秀忠と江の長女で、秀頼の正妻だった千姫。6歳で大坂へ輿入れしますが、この際に江が付き添った事は資料からも確認できるそうです。千姫は大坂夏の陣で淀殿と秀頼の助命嘆願を頼まれ落城寸前に脱出するものの、うまくいかず2人は翌日自害。ショックで長らく寝込んだそうです。

 千姫はその後、国内に2カ所しかなかった縁切寺の1つ、満徳寺(上州・世良田、現・群馬県太田市)で豊臣との縁を切り、本多忠刻と再婚することになりますが、この時に起こったのが坂崎出羽守事件です。

 「千姫を坂崎の嫁にする約束を破ったからとか、坂崎に嫁ぎ先を探させ公家との縁談をまとめようとしたのに、これを反故にしたからとも言われるが、とにかく事件が起きたのは事実」だそうで、千人余りの家臣を剃髪させ屋敷に立て籠もるという、江戸でも前代未聞の大事件だったとか。

 また、再婚で忠刻の父、忠政は桑名10万石から姫路25万石へ転封されますが「うち10万石は千姫の化粧料。北政所でさえ1万石ぐらいなのだから、異例の高額」だそうです。

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 《天秀尼と国松》

 本多家では子供を授かるものの、嫡男が早く亡くなるなどして秀頼の怨霊を恐れた千姫。その後、夫に先立たれて江戸城に戻り、落飾して天寿院(天樹院)と号します。その頃から秀頼と側室の娘、天秀尼との交流が盛んになります。

 「天秀尼となる娘は夏の陣で徳川方に捕まるが、千姫の嘆願で命を助けられ、もう1つの縁切寺である東慶寺(鎌倉)に入れられ後に東慶寺20世となった」そうです。2人はひんぱんに手紙のやり取りもしており、千姫の豊臣への思いもうかがわせます。

 秀頼と側室の子供では、斬首された国松もいます。「男児がいることを内緒にするため国松は当初、淀殿の妹・初(常高院)に預けられ、若狭・小浜の京極家で育てられた」そうです。しかし、冬の陣勃発で「父に対面できないのはかわいそう、という常高院の意向から、京極家の荷物の中に入れ城内に運んだ、とする資料がある」そうです。国松はそのまま夏の陣まで大坂城に留まり、脱出するときに捕まりました。

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 《もう1人男児が…》

 秀頼の息子は国松だけというのが従来からの定説ですが、これとは別に秀頼の息子だと告白している人がいます。「続日本高僧伝」などで紹介されている僧の求厭(きゅうえん)で、老いて臨終の時に徒弟に告げたとしていますが、裏付け資料がなく真実かどうか確認できなかったそうです。

 ところが今年、資料の調査で新たな発見がありました。夏の陣で天秀尼が捕まった3日後、武将の細川忠興が家臣へ出した手紙がそれです。ここには『秀頼様御子様御一人は十、御一人は七つに御成候…』とありました。つまり「この手紙は秀頼の子供を捜せ、という幕府の意向を部下に伝えたもので、その中で『男児は2人いる』としている。続日本高僧伝などの記述を裏付けることになり、求厭が息子だった可能性が高まった」そうです。

 北川さんは豊臣の子孫が生き延びたとする映画「プリンセス・トヨトミ」の監修を頼まれた際、この事を踏まえ「求厭の子孫とする方が良い」と助言。結局、映画は国松が生き延びたことになっていますが、映画同様、史実の方も驚きの展開になりそうです。

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 《秀頼像建立記念御膳》

 講演の後は、同ホテルのレストラン「シャトー」和食シェフ、田中順也さんが腕によりをかけてくれた特別膳を味わいました。

 メニューは、マグロやイカの刺身▽タイやエビ、ナスなどの揚げ物▽ブリ大根▽サワラのみそ幽庵焼き▽きんぴらゴボウ▽紅白かまぼこ▽伊達巻き▽卵豆腐などの吸い物-など盛りだくさん。さらに、デザートとしてカステラやワインゼリーなどもあり、記念御膳らしく豪華な内容でした。

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 《秀頼像とご対面》

 午後からは雨の中を歩いて玉造稲荷神社に出向きました。秀頼の銅像は天守閣復興80周年に合わせて、秀頼の“復権”を図ろうと建立。文化勲章受章者の彫刻家、中村晋也さんが制作しました。本当は偉丈夫だったという秀頼の衣冠束帯の姿を表現しています。

 同神社では宮司の鈴木一男さんが、神社と秀頼との関係などについて解説してくれました。「玉造」の名は古代、一帯に勾玉(まがたま)などを造る渡来人がいたことによるとのこと。神社は戦国時代に荒廃しますが、秀頼が慶長8(1603)年に再建。境内には秀頼の胞衣(えな=卵膜・胎盤など)をまつった胞衣塚大明神もあるなど、関係が深いそうです。

 説明の後、会員のみなさんは間近で銅像を見学。二条城での対面で徳川家康をも恐れさせたという秀頼の堂々とした姿を、しばし眺めていました。

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