2011年11月 2日
文化サロン「平安時代のライバルたち」第1回を開催しました
ウェーブ産経の文化サロンで「平安時代のライバルたち」をテーマにした新シリーズ「3回で学ぶ京都」が始まりました。
「歴史人物対決シリーズ」平安時代編として、第1回の講義が10月17日、大阪市浪速区の産経新聞大阪本社で2回に分けて開かれ、計約90人の会員が参加しました。
講師は京都観光の企画会社、らくたび代表でプロガイドの山村純也さん。第1回のテーマは「最澄VS空海~二大スーパースターの活躍と確執~」。天台宗の開祖、最澄と、真言宗の開祖、空海に迫りました。
《平安新仏教の第一人者 「最澄」の歩み》
会場で配られた資料をもとに、まず最澄の歩みから振り返りましょう。
天平神護2(766)年、近江国(滋賀県)に生まれた最澄は13歳で仏教の勉強を始め、20歳の時に東大寺で国家公認のエリート僧になりました。
しかし、一部の貴族や僧のための仏教に疑問を抱くと、新しい仏教を求めて比叡山にこもり、修行を重ねます。延暦23(804)年、唐へ渡り、天台教学や密教、禅などを学び、帰国後、日本独自の天台宗を開きました。
ただ、当時の朝廷では密教が注目され始め、最澄が唐で学んだ密教は未熟だったため、僧として格が下だった空海の弟子となり、密教を学びました。
山村さんは当時、すでに地位があった最澄が遣唐使船に乗ることを願い出たことについて、常識では考えられないことと解説しました。というのは、やはり危険だったからです。唐へたどりつけるのは、ほぼ2分の1の確率。帰りも同じなので、約25%の確率でしか日本へ帰ってこられなかったそうです。
また、宗教的指導者として認められていたにもかかわらず、まだ無名だった空海の弟子になったのも、最澄の純粋さが現れていると指摘しました。
《日本が生んだ万能の天才 「空海」の歩み》
続いて、空海の歩みを振り返ってみましょう。
宝亀5(774)年、讃岐国(香川県)に生まれた空海は、15歳で論語、史伝などを学び、18歳で京都の大学に入りました。20歳を過ぎた頃から吉野や四国の山林で修行を重ねながら広く仏教の教えを学び、31歳の時に東大寺で正式な僧になりました。
延暦23年、私費留学僧として遣唐使船に乗り、翌年には唐の長安に入りました。密教の第一人者、恵果のもとで密教のすべてを学び、真言密教の正当な継承者になりました。2年後に帰国しますが、当初の規定であった20年という在唐期間を無視した帰国だったため入洛は認められず、九州や大阪で待機となりました。
嵯峨天皇の代になって許されると、高雄山寺(のちの神護寺)に入り、真言密教の布教を精力的に始めます。次第に嵯峨天皇と交流を深め、弘仁7(816)年には高野山を弟子の修行道場として、弘仁14(823)年には東寺を密教の道場として譲り受けました。
山村さんは空海が起こした奇跡の数々として、私費留学で遣唐使船に乗れたこと、最澄と同じく25%の確率で帰国することができたこと、恵果から教えを受けることができたことなどを挙げました。
さらに、2年後に遣唐使船が再来したことを「ほんまにすごい」奇跡と指摘しました。最澄のように行った船に乗って帰る場合、長くても半年ほどしか滞在できないそうです。次の船が来るのは、ほぼ20年後。しかし、空海は、唐の元首が交代したため2年後に臨時でやってきた船に乗って帰ることができたのです。もし臨時船がなかったら、次の船が来たのは25年後。空海は唐で亡くなっていたことになるそうです。
《最澄VS空海~永遠のライバルの軌跡~》
いよいよ本題へ。ライバルの軌跡を振り返りましょう。
運命の出会いは延暦23年5月12日、最澄は国家のエリート僧として、空海は無名の僧として遣唐使船に乗りました。ただし、最澄は第2船、空海が第1船に乗ったため、まだ交流は生まれませんでした。ちなみに、第3船と第4船は難破したそうです。
唐での修行時代、最澄は、天台教学の奥義を学び、禅や密教も「一通り」学びました。空海は恵果から正当な継承者として認められ、密教の「すべて」を学びました。
帰国後、最澄は天台宗を開宗。宗教界の第一人者としての地位を不動のものにしましたが、後ろ盾となった桓武天皇を失います。空海は九州、大阪で足止めされましたが、高雄山寺に入ると、密教の布教を始め、名声を高めました。
そして、交流時代が訪れます。最澄は周囲の反対を押し切って空海の弟子になります。空海も最澄の謙虚さと熱心さに打たれ、交流を続けました。
その後、ついに別々の道へ進みます。最澄は密教をさらに学ぶべく、経典の借用を願い続けましたが、空海は経典で学ぼうとする最澄の姿勢に密教とは根本的に相いれないと感じたからです。
弘仁7(816)年、完全に決別しました。
山村さんは、最新の密教を持ち帰った空海に対し、古典的な仏教を学んだ最澄は、当時は不利だったかもしれないと、2人の対決を分析しました。
ただし、その後の影響を比べ、空海が伝えた密教が弘法信仰へ変わっていったのに対し、最澄が開いた比叡山は「日本仏教の母なる山」となったことを指摘。
「個人の対決では空海さんに軍配が上がったけど、その後は最澄さんが盛り返したかな」とまとめました。
(2011年11月 2日 18:06)
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