2011年10月31日
「特別公開中の興福寺を訪ねて」を開催しました

猿沢池にその姿を写し、奈良を代表する光景ともなっている興福寺の五重塔。藤原不比等創建という同寺の歴史を学び、公開されている三重塔や北円堂などを拝観する、ウェーブ産経の「特別公開中の興福寺を訪ねて」が10月11日、奈良市登大路町の同寺で開かれました。同寺執事長の森谷英俊さんが三重塔やそこにまつられる弁才天坐像の由来、神仏習合との関わりなどを詳しく解説。参加した会員55人も熱心に耳を傾け基礎を学んだ後、拝観に臨みました。
《興福寺と神仏分離令》
森谷さんによる講演の会場となったのは、三重塔隣の興福寺会館です。森谷さんはまず、江戸時代までの同寺について「春日社興福寺という大きな組織で、神社と寺が一体化していた」「現在の県庁北側付近も含まれる広大な境内。江戸幕府から2万1400石をもらい奉行が管轄し天領として治められていた」と往時の様子を紹介しました。
そして「春日社興福寺が解体されたのが明治時代の神仏分離令で、寺はその後一時衰退した」「しかし、それまで神社と寺は一体化しており、これが日本の本来の宗教の在り方」「例えば中東でも元々は(日本と同様に)多神教だったと言われ、色々なものに神が宿るという信仰の方が自然」などと語りました。

《南円堂と神仏習合と弁才天》
平城京遷都と同時に建立されたという同寺は藤原氏の氏寺であり、氏神が春日大社となります。平安時代の弘仁4(813)年、藤原冬嗣が南円堂を建立しますが「この際に、不空羂索(けんさく)観音をまつるようアドバイスしたのが嵯峨天皇。この観音は鹿の皮をまとっており、鹿を神の使いとする春日神と共通したから」だそうです。そして「この経緯からも神仏習合の流れが分かってくる」とのことです。
ところで、南円堂建立時に祈祷などを行ったのが空海(弘法大師)でした。大師がこの時、天川の弁才天(現・天川村の天河大辨財天社)を勧請したのが、同寺と弁才天との由来の始まりだそうです。
三重塔には旧塔頭の世尊院にあった弁才天坐像がまつられています。江戸時代初期のものですが、頭の上に体が白蛇の宇賀神と鳥居を載せた、変わった姿をしています。これは「鎌倉時代頃から(神は仏の化身などとする)神仏習合の考えが盛んになり、財宝の神である宇賀の神が弁才天の一部だとする信仰が深まった結果」だそうです。
ちなみに弁才天は「芸能などを守護する仏とされ、本来は『才』の字を用いるが、財宝の神との習合により『財』の字を使って弁財天になった」とか。

《国宝を巡って》
講義を聴いた後、特別公開されている三重塔と北円堂(ともに国宝)などの見学です。同寺は源平合戦中の治承4(1180)年、平氏による南都焼討ちで伽藍が焼失しますが、鎌倉時代初期には北円堂などの再建が行われました。寺内ではこの頃の建物が最も古いということです。
三重塔は、境内から一段低い場所にあるため目立ちにくく“知る人ぞ知る”建物で高さ約19メートル。初代の建立は康治2(1143)年と伝わります。南都焼討ちで焼失後、鎌倉時代に再建されたとみられていますが、軽やかで優美な姿は平安時代の建築様式を伝えているとされます。初層内部が公開され、宇賀神を戴く本尊の弁才天坐像も見ることができました。
北円堂は、同寺創建者の藤原不比等の一周忌にあたる養老5(721)年に建立。三重塔などとともに焼けましたが、承元4(1210)年ごろ再建されました。平面が八角形の「八角円堂」です。復興には鎌倉期を代表する慶派の仏師が携わり、運慶が制作を指揮した本尊の弥勒如来坐像、脇侍の無著菩薩立像と世親菩薩立像(いずれも国宝)も鑑賞しました。
(2011年10月31日 10:38)
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