2011年1月18日
「第4回加藤先生の日本史授業」を開催しました。
ウェーブ産経の文化サロン「第4回加藤先生の日本史授業」が1月18日、大阪市北区梅田のブリーゼタワー内にある産経新聞梅田オフィスで開かれました(会員約70人参加)。講師に加藤正彦氏(帝塚山学院大学高・大連携室長)が「近代日本外交史~ペリー来航から三国干渉まで~」のテーマで講演しました。
「(資料P26のペリーの写真を示しながら)1853年6月3日、ペリーは黒船に乗って浦賀にやってきました。実は、浦賀に入る前に琉球・小笠原に寄っています。ペリーが小笠原に入った時は、ハワイの先住民の子孫が父島に30数人住んでいました。当時の国際法では、最初に見つけ、最初に住んだものが土地の所有権を有することになっていました。ペリーは小笠原の島民にアメリカ海軍の軍籍を与え、窓口にしました。ペリーが訪れる以前に、イギリス人が小笠原を訪れ、我が領土と主張したプレートを置いていますが、幕末の段階において、小笠原諸島では日本人は誰1人として住んでいませんでした。明治政府が外国に通知したことで、日本領土を主張した経緯があります」
「ペリーは小笠原から直接江戸湾に入らず、もう1回琉球に行っています。日本人の性格、徳川時代の身分制度、シーボルトが書き記した日本史や外国人が日本について記した書物など、徹底して日本研究・勉強をしていたからです。通訳は日本語を一たん、オランダ語にして、英訳したそうです。通訳を複数連れ、プロの絵描きも連れていたとも。幕末明治維新をひもとくときに、島嶼部の歴史から見ていくのも一つの方法です」
「樺太島は長い間、日本人、ロシア人、アイヌ人が対立もなく住んでいました。外交は国益を守る交渉。北方4島は見事にやられたが、話し合いの中身がないと交渉にならない。択捉島の北側にウルップ島がありますが、択捉とウルップの間が、日本とソ連の国境でした」
三国干渉と陸奥宗光の話では、「在東京のドイツ、フランス、ロシアの公私が、本国政府の訓令を受けたと言いつつ、遼東半島領有の放棄を要求してきました。陸奥の回電は、『廟議御確定無きよう』というものでした。その後、広島の御前会議でABC案が出ました。ロシアへの干渉撤回要求…。遼東半島は放棄するが、その代わり、賠償金をくれという替案を出しました」などと解説。講演後、サハリン、千島列島、北方領土に関するビデオが上映され、参加者らは、日本とロシアの歴史について知見を深めました。
(2011年1月18日 14:24)
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